震災から2年、、、やっと前に進めそうです。

 
2011年3月11日、東日本大震災のまっ只中にいた私たち。
2年がたち、実は最近になって、やっと前に踏み出せることになり、
これまでのこと、これからのことなど
心のうちを書き留めておきたいと思います。
 
 
被災直後は、食べるものがないくらい、
そんなことは全然苦になりませんでした。
むしろ、キャンプ道具を出してきて外での生活を楽しんでいたほど。
そして、このとき、緊急時にこどもがトイレを怖がっていけないときや
車のなかなどでも、トイレのように使えて、中身を完全密閉して処理できる
「どこでも*おまる」の必要性を感じ、おおまなか構想が産まれたのです。
 
でもそんな風に呑気に過ごしていたある日、近くの何も売っていないお店で
「原発、爆発!」の記事を初めて読んだとき、事の重大さにカラダが震えたのを覚えています。
それまで、ベビが怖がるのでラジオもつけることができず、
ただ時間が通りすぎていくのを待っていた私たちにとって、
自分で行動していかなければいけない、命を守る母性本能で
目にみえないものに背中を押されたようなキモチになりました。
 
それからすぐに脱出するルートを模索し、
初めて福岡空港に着いたときには、多くの新聞記者に囲まれ、
近くのケーキ屋さんで仲良くケーキを食べているカップルをみて
同じ日本で、同じ時間に、こうも違う世界が繰り広げられていたんだ、ということに驚きました。
 
そして、1週間ほどのつもりだった九州での避難生活。
でも初めてテレビで波の映像や、放射能の映像をみて
今後も長引くことを知り、また悲しくなっていました。
その後、また新聞で福岡県が住居の提供を開始する、との知らせに
福岡県に問い合わせてみると、
とりあえず、「うきは市」の県営住宅を用意したから、とカギを渡されました。
 
私たちは、うきは市自体、あまりよく知らなかったのですが、
贅沢をいえる立場ではないことも判っていたし、
ある意味、県の方に勝手にうきは市を選んで頂いたのですが、
でも実は、そのおかげでこのすばらしい町を知ることができました。
 
オーガニックな畑に食べ物は、ゴロゴロしているし、
震災でボロボロになった肌を癒してくれる豊かな温泉街が3つもあって、、、。
この奇跡的ともいえる美しい町に、
震災でボロボロになった私の心がどれだけ癒されたことか。
 
でも現実的には、せっかく決まった仙台の保育園は泣く泣くキャンセルしなくてはいけなくなったり、
すべての仕事道具が手元になかったり、、、
主人の仕事も探さなくてはいけなかったり、、、。
 
毎日まいにち、仙台に帰ろうか悩んでいたとき、
1年前、母から渡部和子氏の「置かれた場所で咲きなさい」という本を頂きました。
そう、ずっと私のキモチも揺らいでいたのです。
 
 
同時に、オーガニックなモノを創っていきたい私にとって
都会のなかで創ることにも矛盾を感じはじめたこともあり、
この「うきは」の、自然ゆたかで感性が触発される場所が魅力でもありました。
実は陶芸家や、たくさんの作家さんが集まるほど、
モノづくりには最適な場所。
 
そして2年たった今、
今だに、「どこから発送されますか?」の質問が多いことから
作品を守るため東北に戻ることをあきらめました。
そして母がくれた本のタイトルを思い出し、
自分が与えられた場所、偶然、福岡県が勝手に選んでくれた場所で、
もうしばらく、がんばってみることにしました。
 
そう想うと心がスーッとラクになって
またまた迷いの背中をぐーっと押すように、
トントンと、いろいろといい話もでてきて、、、、、。
 
この2年間、迷いながらも、がむしゃらに一生懸命 に生きてきたように想います。
今では、1本の道すじが見えてきたようで、清々しいのです。
震災以外にもいろんなことが日々起こるけど
(実は、こっちにきて九州北部大洪水の災害にも遭って避難していたのです、、、笑)
すべては意味があって起きているはずだ、
一つずつ自分のなかで、
それがどんな意味をもたらすのだろう、と考えながら前に進んでいこうと想います。
 
 
原発で苦しんだけど、だからこそ
自然と共存する生き方が大事だと再認識できたし、そういいやすくなった。
これからも自然を守るオーガニックなものを創りあげることで
人間も「自然の素材が一番、だから自然を残さなければ」と想ってもらえると
嬉しいな、と想います。私がここ、うきはに居る意味もそこにあるのかも。
「置かれた場所で咲きなさい」
もう少し、ここで花を咲かせてみたいと想っています。
 
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